taut01.gif
ブルーノタウトの会

■新着情報
■会について
■ブルーノタウトとは
■映像のDVD化について
■ガラスの建築積み木
■ブルーノ・タウト賞の創設
〜第4回受賞式典〜
〜第3回受賞式典〜
〜第2回受賞式典〜
〜第1回受賞式典〜
■生誕130年記念
〜シンポジウム「がんばれ群馬」〜
■タウトの散策路
〜高崎市・少林山達磨寺界隈〜
■タウト理解のために
〜高弟・水原 徳言〜
■映像「夢ひかる刻(とき)」
■ご協力いただいた方々
〜募金者リスト〜
■リンク
■お問い合せ
Copyright2004,brunotaut.com
All rights reserved.

タウト理解のために〜高弟・水原徳言
以下の文章は、タウトの弟子であった水原徳原氏の手によるものであり、文中の「私」とは水原氏本人を指します。
1.建築家ブルーノ・タウト2.タウトの人と家3.タウトを迎えた群馬県の工芸
4.タウトの工芸指導5.タウトの絵画6.少林山洗心亭
7.タウトのたたえた日本8.タウトの著書9.タウトと現代10.タウトの後に
1、建築家ブルーノ・ダウト

 第一次世界大戦の後、世界の建築は「国際建築」といわれる自由な表現を以て大きく改革の波に洗われることとなったが、その中核となったのは、戦争ですべてを失って再建の意欲に燃えるドイツ共和国の建築であった。
  ブルーノ・タウトもその世界をリードした建築家の一人として国際的に強い影響を及ぼしたが「国際建築」の一員としては異色ある作家であった。
  表現派作家として「鉄の記念塔」「ガラスの家」などが知られるが、戦後のマクデブルク市建築課長として「色彩宣言」という衝撃的な発言と実施で賛否の声を湧かせ、一転して住宅問題解決の理想と実践活動に次々とベルリン市街に大規模な共同住宅街を造成して、その理論を大学に講じ、田園都市を主張した。
  そして、日本に招かれてからは、桂離宮を近代建築の規範と賛美し、伊勢は建築の聖祠だと称え、小さいながら珠玉の名作「熱海の家」を残して去った。

.タウトの人と家 ↑pagetop

 ブルーノ・タウトはカントと同じ故郷を持つケーニヒスブルクにうまれたことを生涯の誇りとしたドイツ人であった。そしてその祖国を愛するが故に、それを憎まねばならなかった人である。
  タウトの作品はいつも現実の世界に幻想の夢を含ませるから、その心して見なくてはならない。そして、それを理解するためにその人と家を見たい。作品はそこから生まれたものだからである。
  タウトの伝記は一般に父も母も、同じ建築家になった弟マックスの他には兄弟も姉妹もその名を記されないのが常であり、また多くは妻もその子らについても語られていない。
 ダウト自身はそれらについて全く語らぬ人であり、それは建築・芸術とはかかわりのないものとして無視していた。妻も子も家も、自分の芸術を全うすることの為には放棄する。「私がそこに美しさを見出し得るところが私の故郷であり、私の家である」というが、それがほんとうに実践された生涯だったのである。けれどもそういう人を作ったのは、父であり母であり、その家であったこともまた当然であった。それを見ておかねばならないと思う。

3、タウトを迎えた群馬県の工芸 ↑pagetop

 大正の末年、芸術の都にあこがれてパリに渡った井上房一郎は故郷高崎に美的生産の実現を夢みながら、昭和4年(1929)帰朝した。
 しかし日本は金輸出解禁と共に世界恐慌の波に呑みこまれ、米価・生糸の大暴落、普通選挙の実施による無産党の進出、共産党を恐れての大検挙とその反動による軍部ファシズム激化という混迷の時代である。
 高崎の白衣観音を建てて市の名物とした井上保三郎は工業振興を志すと共に手工芸生産による市民農村の収益を助成するための殖産計画を次々に実践したので、その父の業を継ぐべく帰国した井上房一郎は、市街地の整備、都市景観の美化と次々に手をつけ、長い滞欧生活の体験を郷土のために役立てようとした。
 工業試験場を中心として展開された各種の手工業生産の指導と購買、漆工、木工、染色、銘仙広巾化、ホームスパーン等、広範な工芸品生産が活動し始めていたとき、そこにタウトが迎えられたのである。

4、タウトの工芸指導 ↑pagetop

ヨーロッパから遠く離れ、あこがれていた日本を、その土に立って見たタウトは確認した自信と、発見した嘆賞の喜びのなかに、創作の意欲をかき立てられていた。
 その実現の機会は、仙台の国立工芸指導所の要請を受けて与えられたように思われた。しかしそこで知った事実は、基本的な造型の資質を欠く幻滅であった。有為な若い人々に明日を約束する希望を残したままでタウトは仙台を離れた。
 高崎に招かれて群馬県の嘱託となったタウトは再びその失敗をくりかえすことを避け、始めから可能なものを選んで、何であろうと作らせることを心がけて出発した。木も漆も竹も、竹皮細工も、銘仙も、ホームスパーンも、クッションも敷物も、売店の設計から化粧道具まで日用生活用具、カフスボタンから洋傘の柄まで、おそらくこれほど幅広くしかも僅かな期間内に作り出した例もなく、作った人もなかったであろう。もしもそれに続く戦争の時代がすべてを再び消し去ってしまわなかったら、群馬県の工芸は今もなおその豊富なみのりを伝え残していたであろうが、今日展示されるものも、当時作られた工芸品の片鱗にすぎないことが残念である。

5、タウトの絵画 ↑pagetop

画家となるべきか、建築家としての道を選ぶべきか、青年時代の出発点でタウトは迷ったと言う。それほど絵画についての捨て難い魅力をいだいていたのである。
 建築家としての名声が動かぬものとなってからもその著作の中には自筆のデッサンがその特色のある筆致で示されていて、読者は常にその強い個性を見せられる。タウトより7才年下の建築家ル・コルビュジエ(1887-1967)も画家ジャンヌレとして知られる立派な画家でもある。タウトはそれを評価していないけれども、ル・コルビュジエは「アルプス建築」の影響を受けたといっている。タウトの絵画的表現はそれを棄てたといっている時になっても、なお多くの人に注目され続けていたのである。
  けれども日本を訪れてタウトが知った東洋画の中に現実社会を否として世外に文雅の道を楽しむ脱俗の画境が南宋画の血をうけて育っていたことを知った時に、眠っていた絵画への思慕は忘れかねた初恋のように再び燃えあがった。それは所詮、実らぬ恋に終わるものだったかも知れないが日本に残したタウトの画には愉悦の筆に棄て難いものを見せている。

6、少林山洗心亭 ↑pagetop

今日高崎市西郊の丘上にタウトの遺跡・洗心亭を訪れる旅人は、こんな小さく粗末な家をその日記のなかで、あのように美しい思い出の筆に綴ったのは何故だろうといぶかしむにちがいない。
  勿論タウトは王侯貴族の宮廷のような邸宅を願う好みはなかった。けれども建築家として理論的な居住空間はどうあるべきか多年の知識と豊富な体験の集積がある。それに照らして洗心亭がいかに欠陥多く、到底それを一個の住宅とは認めかねるものであることは承知していた。せめてこの二倍の空間があればと日記に嘆きのことばをとどめている。
  けれどもその生活についての不満は語られてもこのささやかの建物に住むことを押しつけられたことに対しては一言の恨みを述べたこともなく、それをとりまく自然を楽しむことを語って倦くこともない。
  タウトは鴨長明の方丈記を読み、芭蕉の草庵をしのび、そして池大雅、十便図を是としていた。多くの日木人がそれは知ているだろうが現代にそれを現実の生き方とすることは出来ない。だがタウトはそのように住み、それを楽しむこと、田園の自然の中に身を置くことを真実の生としたのである。

7、タウトのたたえた日本 ↑pagetop

 タウトが日本の建築のみならず、絵画として浮世絵や工芸品などに興味をいだいたのは青年時代からのことだという。もともとユーゲントシュティール(フランスではアールヌーボー)といわれた芸術は日本美術をその対象として生まれたもので、いわゆる「ジャポニスム」であった。
  けれどもタウトはすでに早いころの「新住宅」と題した著書の中に大徳寺真珠庵の写真を示しているので、「ジャポニスム」と一般に呼ばれたものよりも深い認識を持っていたことがわかる。そしてタウトを日本に招いた建築家たちはそれを知っていたから日本を案内してみせる最初の目標を桂離宮としたのである。 青年時代からいろいろ想像していた日本建築が日本に着いた第一歩の 」桂離宮として現れたとすればその感動を察することができよう。
 日本の庭園と建築が住のように調和し行届いた管理で守られているところはない。  始めから柱を見てしまったタウトはやがてそれは唯一の例外で、それを超えるものはなくあまりにも俗悪なものの多いことに驚き、また日本人は果たして自分の持っている貴重な文化をそれと知っているのだろうかと疑わざる得ないようになった。タウトが日本について様々の酷評を示していることもそう考えると当然な帰結だったのである。

8、タウトの著書 ↑pagetop

  日本でタウトの名が知られているのは、その建築家としての作品が一般に見られるものではなく、また小工芸品などの作品も残されているものは少なく見る機会も得難いので、その著作によるのが唯一のものといえるだろう。
  ところがその著述を日本に限って考えるとしても、ドイツ語で記されたタウトの原文は公刊されてない「日本建築の基礎」と題されている 国際文化振興会の出版物のみがその唯 一の例外で独英両国語で刊行されているが入手はむずかしく、タウト自身も理解できた英文の出版「日本の家屋と生活』(三省堂刊)は絶版である。少林山洗心亭に住んだころに用意された「建築芸術論」と題されている最後の著作にはトルコで出版されたものでその入手はおろか、瞥見した人も極めて少ないだろう。
  多くの人はその日本語訳によってタウトを知るだけであろう。けれども実はそれもタウトの目で確かめられて、というのはその中に挿入されている写真や絵なども含めて、そのままに出版されているものはない。ところが実はその目にみられるものとしての文章以外のところにタウトが表現しようとした意図が強く働いている。それを念頭においてタウトの著作を見るべきだということが重要である。

、タウトと現代 ↑pagetop

その生誕100年を記念して催されたベルリンのタウト展カタログの主要論文を訳出された書物は日本で「ブルーノ・タウトと現代」と題して公刊された。それはタウトを今日いかに評価すべきかという意味であるという。
  同書はそのために必見のものである。けれどもそれは、ドイツで企図されたものであって、日本の評価としてはおのずからちがうものとなろう。そこに欠落している最も重要なものは仙台・高崎等でタウトの仕事とした業績に含まれている日本にあってのタウト作品家具、竹の工芸品、そして来日の後に生まれたタウトの絵画的な試みの姿である。
  特にタウトが大雅・玉堂・竹田などという文人画の中に見出した画境、現代につながる画人として富岡鉄斎に及ぶものに対しての熱いそのまなざしである。それなくしては「柱の画帖」の作品は考えられず、数多く残されている色紙類の絵は生まれ得なかった。そしてこれはタウトが日本の土を踏むまでは予想されなかった変貌であり、ドイツからは今もかえり見られていない。
  ブルーノ・タウトという偉大なユートピアンは今日ようやくその人の姿に迫る扉が開かれようとしているのだといわねばならない。

10、タウトの後に ↑pagetop

 私がブルーノ・タウトを知ったのは高崎にその人を迎えた時、井上氏のもとでその仕事に従うことになったからである。しかし、言葉も十分ではないし、建築はもちろん工藝にも素養のない一介の若者だったから学ぶべきことがあまりにも多く到底その求めを満たすことはできない。ただひたすら示されるものを実現するように、力を尽す毎日で、間もなくタウトは新興のトルコ政府から手厚い招きを受けて日本を去った。
  トルコヘ向う車中の手紙に私も来るようにと誘われ、重ねてトルコから工芸所長上野伊三郎宛に、私にそれをすすめるよう手紙があった。そして僅か二年の後、タウトの訃音に接したのである。
 1968年夏、私は始めてドイツに行ったがまだ東ドイツヘの入国は禁じられていた。ようやく願いを果し得たのは1977年ドイツヘ行きビザも無く電話でタウトの遺児ハインリッヒを頼り連絡してベルリンS バーンで東西の境界ですべての乗客が降りるのに一人乗っているまま東に入った。 ハインリッヒが見えたので手を上げ、やっと入国できた。毎日ブルーノゆかりの地や作品などすべて案内してもらった。しかし、残念だがエリカ夫人は1975年死去、再び会うことはできなかった。タウトの死後ひとり日本に来たエリカ夫人は私の家に居て、妻も母のように親しみ毎日私の生まれたばかりの娘を抱いて濠端の道を散歩した。
  エリカの墓はブルーノの遺髪を添えて西ベルリンに埋葬されている。ハインリッヒ夫妻の希望で手続きがむずかしかったが日本へ招き二ケ月ほど父の跡を案内、少林山へも一泊した。ハインリッヒは1995年死去。タウトにはもう一人エリザベートという娘があって父やマックスの遣品等すべての資料を保存していて私も様々な写真なども受取ったが、今年三月亡くなって、タウトを称する人は絶えた。
  タウトとエリカの間に生まれたクラリッサはフランクフルトの近くに住んで居てバスチャンという夫は死去、二人男の子があってブルーノの血を継ぐ男はそれだけ、エリザベートには娘一人。ハインリッヒ夫妻にも弟のマックス・タウトにも子供はない。タウトの生地、ケーニビスベルク、今のカリーニングラードにゆかりの者もない。
  トルコ、イスタンブルの自邸で1938年12月24日に亡くなったブルーノ・タウトの墓はエディルネ門墓地にあり私が岩波の図書に記し、訪れる人もあるが、ボスポラス海峡に面して傾斜したオルタコイというところにあった自邸の隣に作られた建築を、その自邸だと記すものがあるのは誤りで、エリカにもらった写真や、タウトの手紙で「私の家からの眺め」という画もあるので住んでいたのはそこではない。設計はしたが完成したのは死後で、中を見ると疎放なもので、それを遺作とはいえない。また首都アンカラに企画された建築は、死後、弟のマックスが作ったので厳正にはブルーノの作といえない。トルコでの最後の作となったのはトルコ建国の父と呼ばれるケマル・アタチュルクの葬儀場だった。病を押し徹宵それを作ったブルーノ・タウトは、その恩に報いる作品を贈って自らもまたその後を追ったのである。
↑pagetop